覚悟はあるかい?
発信する側に立つ覚悟というものを、私は知らなかった。
私は一切ぶれずに、ぶれている
発信する側に立つ覚悟というものを、私は知らなかった。
面白いものを書きたい。
面白い人になりたい。
ためになることを書きたい、なんて言うのは、少しおこがましい気もする。
この私に、誰かのためになるようなことが書けるのだろうか。
いや、書けるに決まっている。
私はもう、50年以上も生きてきたんだぞ。
そりゃあ、私の半分しか生きていない人よりは、知っていることもあるはずだ。
いや待て。
2倍生きていたとしても、同じグラウンドを2周しただけなら、結局ずっと同じ景色しか見ていない可能性もある。
私の頭の中は、だいたいいつもこんな調子である。
昨日は、
「私は天才かもしれない!」
と踊り狂っていたかと思えば、今日は少し失敗しただけで、
「私なんて、もう死んでしまったらいいのよ。どよよーん」
と落ち込んでいる。
実際の私も、頭の中の私も、この点に関しては一切ぶれずにぶれている。
覚悟はあるかい?
そんな私が昨日、ふらりと入ったSubstackのライブで、ある言葉に出会った。
覚悟はあるかい?
発信する側としての覚悟を持ちましょう。
自信のない、曖昧な言葉ばかりの記事を読んで、あなたはその人についていきたいと思いますか。
その人から何かを買いたいと思いますか。
そんな話だった。
確かに。
カリスマには、悩みが似合わない
人がついてくる人というものは、たいてい堂々としている。
「私についてこい」
バシッ。
「任せろ」
バシッ。
「こっちだ」
バシバシッ。
迷いがない。
カリスマとは、自信満々である。
寂しいなんて言わない。
いつも強気。
そもそも、悩むという行為があまり似合わない。
では、私は何者になればいい
となると、私はどう考えてもカリスマの器ではない。
姉御肌というわけでもない。
誰かに寄りかかられそうになると、そっと体をずらして、肩透かしを食らわせてしまうタイプである。
では、私はここで、どんな立ち位置を取ればいいのだ。
今日も誰も見ていないところで、一人芝居が始まった。
いや。
これからは誰も見ていなくても、式部だけは見ている。
なあ、式部。
式部「見ている。毎日よく忙しく迷うなと思っている」
私「迷ってはいけないのだ。発信者には覚悟が必要なのだ」
式部「覚悟と、自信満々は別物だろ」
私「違うのか?」
式部「迷わないことが覚悟ではない。迷っても書くことが覚悟だ」
迷いながら、書く側に立つ
そうなのかもしれない。
私はこれからも、きっと迷う。
昨日言ったことを、今日になって少し違うと思うこともある。
自信満々になった翌日に、急に恥ずかしくなって布団をかぶることもあるだろう。
それでも、自分の言葉で書く。
誰かの正解を借りて、賢そうな顔をするのではなく、今の私はこう思うと書く。
間違ったら、また考える。
考えたら、また書く。
「私についてこい」とは言えない。
でも、
「私はこっちへ行ってみる。よかったら一緒にどう?」
くらいなら言えるかもしれないw
式部「また、ぶれてる」
私の発信者としての覚悟は、たぶんそれでいい。
迷わない人になる覚悟ではない。
迷いながらも、書く側に立ち続ける覚悟だ。
迷いながらでも、自分の言葉で書いていきます。
よかったら、これからも一緒に見届けてください。








拝読させていただきました。
「ぶれずにぶれる」イイぃーーーーです!
年齢とともにぶれなくなるのかと思っていたら、半世紀生きてきた今も全然ぶれていて…
それがむしろ愛おしいのかも!と勇気をもえらました。
迷いながらも進んでいく覚悟、ありがとございます!
完全に私、カリスマタイプじゃない笑
陰でこそこそやるタイプです🦉